【豆知識】ブライシノマキ 〜隠れキリシタンのお墓が石巻にある理由とは?〜

今からおよそ400年前、石巻の月浦(つきのうら)という浜から一隻の船が大海原に繰り出しました。

そうです。サン・ファン・バウティスタ号です。

なぜこの時期に、なぜあの場所から…?

大航海のロマンもさることながら、今もさまざまな謎に包まれているサン・ファン・バウティスタ号、それがこの船の魅力の一つともいえるかもしれません。

さて、このサン・ファン・バウティスタ号が出航した後、しばらくしてから作られた“あるもの”が石巻のまちなかに現存しています。

それが「隠れキリシタン(と思われる方)のお墓」です。

なぜ隠れキリシタンのお墓が石巻に?

なぜそんなものが石巻に?そもそも隠れってどういうこと?

明確な理由はわかっていませんが、ここでは「こうだったんじゃないか」という説をご紹介したいと思います。

まず、隠れキリシタンと思われる方のお墓がある場所についてです。

それは、JR石巻駅から徒歩10分ほどのところ、羽黒山のふもとに位置する永巖寺(えいがんじ)というお寺です。江戸時代前期に開かれた曹洞宗のお寺です。

(※お寺は観光地ではありませんので、見学される場合はお寺や参拝される方のご迷惑にならないようご配慮いただきますようお願いします)

立派な本堂を右手に奥の方へ進んでいくと、たくさんのお墓が立ち並んでいるのが見えます。お目当ての墓標はその入り口あたりにあります。

こちらがそのお墓です。

何も知らずに来ると間違いなく素通りしてしまうほどひっそりと佇んでいます。

正面には何やら文字が書かれていますが、年月が経ちすぎてはっきりとはわかりません。

ちなみに、向かって左に立っている大きな石碑は、天保9(1838)年に建立された慰霊塔です。

そうです、かの有名な「天保の飢饉」によって、石巻でも多くの餓死・病死者が出たのですが、その方々を弔うために建てられたものです。

さて、当該の隠れキリシタンのお墓はそれより200年前に、ある夫婦を弔うために建てられたお墓です。

ヒントとなる石板の文字をわかりやすくイラストにしたものがこちらです。

ここから何がわかるのか?近くで理容店を営み永巖寺の役員を務めていらっしゃる方に教えていただきました。

この文面からわかること、それは、今からおよそ360年前に建てられた夫婦のお墓であること、死亡年月日が同じであることから刑死ではないだろうか?とのことでした。

隠れキリシタンのお墓と考えられる2つの理由

では、こちらがなぜキリシタンの方のお墓といえるのでしょうか?

その大きな理由を2つ挙げていただきました。

①墓標に記された「十三」の文字

イラストをご覧いただくと、「十」「三」の文字が目に付くでしょうか。

「13」がキリスト教において特別な意味を持つことは皆さんご存知の通り。

その数字が、それぞれの戒名の頭に付してあること、死亡年月日も揃って13日とは、何か意図があるのではないかと勘繰ってしまいます。

確かによく見ると上の方に「十」と「三」の文字が書かれているのがわかります。

②マドロスパイプ風の喫煙具が出土

こちらの墓標、以前は別の場所に設置されていたのですが、現在の位置に移動させようとした際にお墓の下からパイプが出土しました。そのパイプには解読不能な横文字が記されていたとのことです。

キセルが主流だったこの時代、わざわざパイプを使用していたあたり、異国との繋がりがあった人であったことが想像されます。

もう一つ、この墓に特徴的な点として、その形が挙げられます。

このお墓は尖頂舟形墓(せんちょうふながたぼ)という類型に属し、当時関東一円で広まったものです。

当時の石巻ではお墓はもとより、こういった整った形のお墓を建てることは大変珍しく、よほどの大金持ちか、何か特別な理由で江戸からお墓を仕入れることができた人物であったことが推測されます。

この他にも、キリスト教を信仰していたと思われる方のお墓が永巖寺には他にも数基見られます。

 

一見なんの変てつもない昔のお墓のように見えますが…

 

わかりにくいかもしれませんが、いずれにも戒名の頭に「十」…十字架を連想させる刻印が見られ、続く戒名もキリスト教を連想させるような文として読むことができるそうです。

なぜ石巻にキリシタンが?

キリスト教は禁止とされていた当時、なぜ石巻にキリシタンがいたのでしょうか?

その謎を解く鍵は石巻のまちづくりにあると役員さんは言います。

石巻は江戸時代、江戸への回廻拠点として作られますが(こちらについては、「中瀬はつくられた島だった!?」にて紹介しています)、その後の寛永年間(1624〜1645)ごろに「入込御免の地」として外からの商人などを広く受け入れる政策が取られます。これにより、北は南部藩から南は江戸まで多くの人々が流入し、経済・文化の多様性が生まれました。

もともとキリスト教に寛容であった伊達藩の態度を背景に、キリスト教を信仰する人々も多く入ってきたと思われます。彼らの持つ技術やネットワークが石巻のまちづくりに寄与していったのではないかと、役員さんは熱く語ります。

当時キリスト教は禁止されていましたので、まさかそれに関わる人たちがいたことやそういった方々がまちづくりに関わったことは決して歴史に残されることではありません。

いまや誰のものともわからないお墓ですが、もし隠れキリシタンの方のお墓だとすれば、当時の石巻が他所からの、しかも文化も全く異なる人たちを受け入れながらまちづくりを進めてきたことを示す大きなヒントになるかもしれません。

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